遠藤周作「沈黙」のあらすじと感想&映画について

遠藤周作 沈黙 あらすじ







宗教的な題材を多く扱う遠藤周作さんですが、作品を読むと不思議と「宗教を知らない人の立ち位置」からの視点が多いことに気が付きます。

そして「遠藤周作」という、いかにも「固い文学」的なイメージと違い、すごく読みやすい著書ばかりなのも特徴的です。

大学時代に網羅した遠藤周作さんの代表作「沈黙」について、あらすじネタバレと感想&映画情報を紹介していきます。

この記事はネタバレを多く含むため、見たくない方はココまでですよ!

遠藤周作さんとは

  • 1923年…東京で誕生
  • 幼少期…北満州国で過ごし、神戸に帰国
  • 1934年…カトリックの洗礼を受ける
  • 1955年…「白い人」で芥川賞を受賞
  • 1995年…文化勲章受章
  • 1996年…病没

 

遠藤周作さんは、20世紀日本を代表する歴史小説家です。宗教(キリスト教)をテーマとする作品が多い一方で、ユーモアにあふれた多彩な作品も多い作家さん。

昭和にはめずらしい「スラスラ読みやすい小説家」という特徴で、21世紀現代でも一気読みできる魅力ある作品ばかりです。

遠藤守作の「沈黙」の登場人物一覧

遠藤周作 沈黙 あらすじ
  • ロドリゴ神父
    …イエズス会が派遣したポルトガルの敬虔な司祭。フェレイラ元神父の現状を知るために日本に来て、フェレイラと同じ拷問に合う
  • フェレイラ
    …イエズス会の元司祭。日本人のキリシタン弾圧の拷問に屈し、神を捨てて和名をもらい女子供とともに日本で暮らしている
  • 主・イエスキリスト
    …神の子であるユダヤ人のイエスキリスト
  • ユダ
    …イエスを裏切った13人目の弟子

  • …キリスト教徒が信じる、全知全能の神

遠藤守作の「沈黙」あらすじ・ネタバレ

遠藤周作 沈黙 あらすじ

「沈黙」とは、1644年、日本でキリスト教弾圧の「踏み絵」儀式が横行していた時代のストーリー。

フェレイラ司祭の転落

主人公はロドリゴ神父。ポルトガルからインド、東南アジアを経て日本に到達。

先に日本に来ていた尊敬していたフェレイラ司祭が「拷問に耐えかねてキリスト教を捨てた」との知らせを受け、事の真相を確かめるために来た。

日本でのキリスト教弾圧の現実

ロドリゴ司祭が到着した日本での、キリスト教弾圧は想像以上に厳しかった。

踏み絵を踏むまでキリスト教徒に拷問を加え続け、精神的にも肉体的にも追い詰めつくした。

殺すことが目的でなく「キリスト教を捨てる=転ぶ」ことを目的とするため、生かし続けて苦痛を与え続ける拷問は悲惨を極めた。

フェレイラとの再会

調査する中で自信も弾圧を受けるロドリゴは、フェレイラ元司祭と再会した。

フェレイラは日本の名前を与えられ、日本の妻と子供をめとって暮らしていた。

キリスト教を捨てたことの理由を言うが、ロドリゴからすると信じがたい神への冒涜に聞こえた。

ロドリゴの拷問

遠藤周作 沈黙 あらすじ

日本人によるロドリゴ神父への拷問も始まり、ロドリゴ神父にしきりに「転ぶ」ようすすめるのは、かつて尊敬したフェレイラだった。

ロドリゴ神父への拷問の横で、絶えず聞こえる日本人教徒のうめき声。

それは、ロドリゴ神父が「転ばない限り」続くと言われるのだった。

フェレイラは「自分も同じ目に合った。自分のためにあの人たちの苦痛は続くのだ」と、ロドリゴを説得し続ける。

ロドリゴは「祈るべきだ!」と拷問の苦痛に耐えながら反論。

キリストならどうするか?

しかしフェレイラは「俺も祈り続けた!けどわかったのだ!キリストがもしも俺と同じ立場だったら、罪のない民衆の苦痛を長引かせない!キリストなら『転んだ』というはずだ!」と。

キリストならば、自分のために信者を苦しませない。

キリストならば、自分にとってより苦痛で、より屈辱的な「転ぶ」方を、人々のために選ぶはず…。

転ぶロドリゴ

キリストならば、今どうするか…自分のために信者が拷問で苦しみ続けていることに耐えかねて、ついにロドリゴは転んだ。

踏まれつくされたキリストの絵を踏むときに、絵の中のキリストがロドリゴに語りかけてきた。

「踏むがいい。お前の足の痛みを私は知っている。

踏むがいい。私はお前たちに踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」

と。

ロドリゴはついに踏み絵を踏んだ…。

ロドリゴとフェレイラのその後

遠藤周作 沈黙 あらすじ

ロドリゴはその後、フェレイラとも今生の別れをした。

踏んだことについて幾度も思いを巡らせながら…。

ロドリゴは、日本という国の「最後のキリシタン司祭」であった。(当時)

主の沈黙

拷問を受けている時から、踏んだ後まで、ロドリゴはこころの中で何度も主に問いかける。

「なぜ主は沈黙を続けるのですか?」

「私は沈黙していない。一緒に苦しんでいたのだ。」

「私はお前に『踏むといい』といったように、ユダにも『なすがいい』といった。お前の足が痛むように、ユダもまた心を痛めていたのだから」

 

遠藤守作の「沈黙」の見どころと感想

タイトルの「沈黙」の意味

遠藤周作 沈黙 あらすじ

まず、物語の巻末ちかくにタイトルの「沈黙」の意味が突然飛び込んできます。

「主よ…なぜあなたは沈黙し続けるのですか?」

「なぜ答えてくださらないのですか?」

ロドリゴも、フェレイラも、日本のキリシタン弾圧を受けた人々も、繰り返しくりかえしこころの中で神に呼びかけ続けました。

はげしい拷問の中でも祈り続けました。

しかし神は何も答えなかった。

結果、皆が「踏み絵」を踏むことになりました。

このタイトルの「沈黙」は「キリストの沈黙」の意味。

そして、巻末に主イエスキリストの言葉として、

「私は沈黙していない。あなたとともに苦しみ続けていたのだ」とあります。

この主イエスキリストの言葉で一気に、人間の信仰心の希薄さが浮き彫りになると同時に、主イエスキリストが常に寄り添い続けてくれていたんだ、という感動を引き起こします。

フェレイラとロドリゴの違い

遠藤周作 沈黙 あらすじ

基本的に、フェレイラとロドリゴは同じです。

同じ思考の旅をして、同じ苦痛を味わう「双子」のような存在です(作中にもそう書かれている)。

けど、作中でもはっきりわからないけど、何かが違います。

  • フェレイラ…「キリストだったら同じように転ぶはずだ」
  • ロドリゴ…「キリストも常に側にいて、一緒に苦しみ続けていたのだ」

 

たどり着いた境地が、ちょっと違う気がするんですよね。そしてロドリゴの方により、感動を覚えます。

ユダの裏切りについて

さいごにチョロっと出てきたユダ。

裏切り者のユダは歴史上も悪者的に言われますが、ロドリゴやフェレイラも同様に、キリスト教信者たちから「悪者」「裏切り者」とののしられ続けることになります。

その共通点から最後にユダに関する見解が突然出てきます。

キリストの言葉として、「ユダになすべきことをするがいい、と言って、それをしたユダは苦しみ続けていた」とあります。

ユダも、フェレイラも、ロドリゴも、苦しみ続けていた。

この世で、人間の規範で「罪」「裏切り」とされる行為であっても、主イエスキリストだけは、裏切った側の人間のそばにも立ち続け、一緒に苦しんでくれる。

ユダもまた、ロドリゴのように苦しみ続けたのだと、見方が変わってきますよね。

そしてキリストは、ユダとともに苦しんだのだと思うと、少し心が温まります。

映画情報

2016年に日米合同で「沈黙―サイレンスー」という映画が公開されました。アカデミー賞受賞作品として日本でも注目を集めましたね。

沈黙 -サイレンス-(Amazonプライムビデオ)で見ることができます!

監督:マーティン・スコセッシ

  • ロドリゴ…アンドリュー・ガーフィールド
  • フェレイラ…リーアム・ニーソン
  • 窪塚洋介
  • 浅野忠信
  • イッセー尾形

原作に忠実な作品として世界的にも有名で、アカデミー賞も受賞しました。

コチラから見ることができます(プライムビデオ会員は無料で)⇒沈黙 -サイレンス-(Amazonプライムビデオ)

さいごに

うちは両親ともにクリスチャンだったけど、成人して宗教の自由を得た今、私はクリスチャンではありません。

幼少期や思春期の「日本におけるクリスチャン」は少数派で希少で恥ずかしい記憶が連なっていることも一因ですが…

大学で歴史学に傾倒した時に、宗教とはその風土とともに伝統されるのが一番自然な形ではないか?

と思い、自信の子どもたちは日本の「常識」とされることをまず伝えてから、

成人して自由に宗教を選んでいけばいいと考えたからです。

だから何ってわけじゃありませんが、大学時代、自分の生まれ育った環境で身近だったキリスト教について勉強しまくった時期があり、その時に一気に読んだ遠藤周作さんの作品は、難しい歴史書・宗教書の中の「楽しみ」「娯楽」の一つでした。

遠藤さんの作品は、本当によみやすい。

そして史実に基づいて書かれているため、歴史書としても大いにイメージを助けてくれます。

今の日本におけるキリスト教は少数派ではあっても弾圧などされず、国民は宗教の自由を与えられています。

が、死が身近だった時代こそ余計に、すがらずにはいられなかった「神」。

苦しみの中で語り掛け続ける信者やロドリゴの祈りに「沈黙」を続ける神というのは、容易に想像できますよね。

天から声が降ってきて話しかけてくることはなくても、命を懸けて信じているものに対して何らかの啓示が欲しいと願い続けるものです。

命がけの祈りに対する「沈黙」。

実は、神は我々の心のそばに寄り添っていて、一緒に苦しみ続けていた、と最後で悟る結末。

「そっか。一緒にいたんだ」と、キリスト教徒でない私でさえ、奇妙な安心感を覚えます。

さいごまで読んでくれてありがとうございました。

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